人間は「快楽を求め苦痛を避けようとする」快楽原則に基づいて行動するが、これは正に本能だ。
「痛み」を感じて致命傷を避けようとする個体の方が生き延びやすく、性行為に「喜び」を感じる個体の方が子孫を残しやすい。
生存に有利な行動を「快」、不利な行動は「不快」と感じるように生物は進化している。
言わば利己的遺伝子が遺伝子の乗り物である我々をコントロールする為の「アメとムチ」として快楽原則が存在しているのだ。

「快楽原則」と言う名前を見ると「快楽」の方が比重が大きい様に思えてしまう。少なくとも「快楽」と「苦痛」が同等のものとして扱われているが、実際は違う。
人は快楽がなくても生きていけるが、苦痛を避けなければ死んでしまう。苦痛を感じることの方が快楽よりも優先度が高いため、生物は「苦痛」の方をより強く、より多く感じる様にできている。

例えば人間の三大欲求にしても、おいしい物を食べれば確かに喜びを得られるが、おいしくなくても「空腹」と言う苦痛から逃れる為に人は食事をとる。
睡眠だって寝るのが楽しいと言うより寝ないと具合が悪くなるから寝ているだけ。
唯一、性欲だけは純粋に快楽を求めて行われるが、それは「子作り」と言う生存するのにまったく不要な行いをさせる為に、利己的遺伝子が快楽の度合いを多めに配分しているからだろう。

つまり生物の行動の大部分は「苦しみから逃れたい」と言う動機によって行われる。アメよりムチの方が圧倒的に多い。
快楽原則では苦しみこそが「主」であり快楽はオマケ程度のもの。だから本当は苦痛原則と呼ぶべきだ。

人間が感じている喜びとは、実際は「苦痛から解放された」事を喜んでいるだけだったりする。当然、全体としては喜びより苦痛の方が大きい。
人が娯楽を求めるのも退屈という苦痛から逃れる為であり、末期がん患者が痛み止めのモルヒネを求めるのと変わらない。

そもそも人間は過剰な快楽を得るとドーパミンが分泌され過ぎて脳細胞が破壊されてしまう。もし脳に痛覚があったなら、人は喜びにさえ苦痛を感じてしまうだろう。
快楽は儚いが苦痛は永続する。「人生は喜びと苦しみのどちらの方が大きいか?」などと悩むのは無意味だ。利己的遺伝子が人間に苦しみの方を多く与えているのは明らかなのだから。

人は生まれながらにして「他人が作ったルール」に支配され、自由ではない。苦しみに満ちたこの世界には、いっそ生まれてこない方が幸せなのです。

I AM FREE

就職しろ。仕事に行け。結婚しろ。
子供を持て。流行を追え。
普通でいろ。レールの上を走れ。
テレビを見ろ。法に従え。
老後に備えよ

さあ復唱しましょう
「私は自由だ」